「狭き門は命の門であった」

インターナショナルVIPクラブ神戸   副会長  玄 承 禎

<はじめに>

 私は、日本でキリストの弟子とならせて頂きました。早くから聖書との出会いはありましたが、聖書を信じないで拒み続けていました。そのような、傲慢で罪深いものであるにも関わらず、慈愛深い神様はすべてを赦しで下さり、父の懐に迎えて下さいました。66歳も6ヶ月を過ぎましたが、主がお赦し下さる限り、主のために捧げる人生を歩ませて頂こうと思っています。本日は、聖書との出会いと、私の歩みの中でどのように主が関与して下さったかをお話しさせて頂きたいと思います。

<聖書との出会い>

 私が正式に聖書と出会ったのは建国高校に入学し、聖書研究会に入会した時でした。ここで、私は忘れられない存在となった羅曽男先生にお会いしました。先生はクリスチャンで私の人生の水先案内をして下さいました。そして、羅先生の紹介で、矢内原忠雄先生のことを知り、大学時代はもっぱら、矢内原先生の書籍を読み、高邁な人格と思想に近づこうとし、先生の名前が書かれた本を見つければ、片っ端から買って読みました。立派な技術者になるよりは、立派な人間になろうと、専門書は放っておいて、矢内原先生の本を読み、先生に倣おうとする、明確な目標を持っていました。先生を尊敬し、その"タダオ"と言う名を息子に呼ばせた程でした。 聖書も霊的に読もうとはしないで、知識と教養のTEXTとして読み、思想の書としてしまったため、自らの視野を狭くし、想像力を閉じこめてしまった人生でした。そのために、伸び伸びとした人生からは外れ、20年間もの間、苦悩多き回り道を歩んでしまったように思います。

<狭い門から入りなさい>

 当時の韓国は、1960年4月19日に、民衆革命によって李承晩大統領政権が崩壊し、1961年5月16日には、軍事クーデターによる朴正熙政権が誕生するなど、目まぐるしく体制が変わった時代でした。 そして、卒業しても、韓国に帰国することも出来ないし、一方、就職も難しい状況でした。また、何時強制送還されるか判らない不安な生活には変わりはありませんでした。何時、送還されでも後悔しないように、勉学しておかなければと思い、大学院への進学も考えました。 しかし、私には、早く卒業して、町工場で働いてほしいと言う親の期待もありました。そうすれば、家族も安心するし、私自身、余計な神経を使わなくて済む楽な道でした。実実、当時の在日韓国人の社会では、町工場で働く大学卒の青年が大勢いました。もちろん、 大学院に進学するのにも大変困難な問題がありました。 それは、私が不法入国者だったため、名前を偽っての願書が果 たして受理されるかどうかは極めて大きな問題でした。また、受験にも自信は有りませんでした。さらに、学費をどう稼ぐのか、また、私は長男だったこともあり、28歳にもなっているから早く結婚するようにとの催促も大きなものがありました。

<大学院に入学>

 しかし、私は、家族の反対を押し切って、「狭い道」を選びました。大学院受験を決心したのです。そして、幸いにも合格することが出来ました。非常に嬉しかったことを覚えています。しかも、不思議なことが次々に起こりました。 まず、接着剤メーカである化学会社の研究室からアルバイトの依頼がありました。これ で、学費の問題も解決出来ました。次に嬉しかったのは、当時としては珍しい外資系の"ロイド船舶協会に勤務している、クリスチャンの女性と結婚を前提にした交際が始まったことです。 彼女は私の困難な法的在留の問題や、生活のための経済的問題も、共に力を合わせて克服しようとする情熱を持っていました。二人には共通 する価値観もありました。その一つはクリスチャンホームを作ろうとする夢でした。特に、感謝したいのは、結婚に反対する両親を説得する勇気を持っていたことでした。 このように、入学という狭い関門を通過することで、私達は、予期しながった大きな恵みを受けたのです。

<二人三脚の同伴者>

 二人は昭和38年(1963年)5月1日に婚約し、秋には、私が洗礼(28歳)を受け、同年10月1日に結婚しました。学生結婚でした。彼女が現在の妻です。 しかし、喜びもつかの間でした。結婚後2ヶ月の12月に、アルバイト先の会社が倒産してしまいました。大きな失意を経験しました。しかし、その約2ヶ月後の1969年3月には、その会社の社長から、「会社を再建するから、技術担当者として来てほしい。大学院を辞めて、再建に専念してくれないか」との話がありました。 まさしく、「ピンチはチャンス」でした。この会社を再建することは、必ずや、自分の人生にプラスになると判断し、早速、この話に応じることとさせて頂きました。 青春を賭けて、7年間よく働き、よく学びました。私の人生の礎を固めるには最も充実した、幸せな時でした。 会社は着実に再建の道を歩み、かつ、大きく成長しました。妻も小さな6畳の部屋で英語塾を開き、1男2女の子供の面 倒を見ながら、積極的に家計を助けでくれました。私達は、夫婦が楽しく協力しながら、共通 の願望であるクリスチャンホーム建設を着実に進めることが出来ました。

<在日韓国人の夢にチャレンジ>

 やがて、会社の経験を通じて、一つの夢が与えられました。それは、在日韓国人としての夢でした。当時、在日同胞の主な産業は土木の下請や、孫請け、金属関係、プラスチックの家内工業に、スクラップ、水商売、パチンコ(当時はギャンブルのイメージが強かった)等であり、製造業としてはケミカル産業が代表的なものでした。 殆どの企業が親会社に隷属され、下請けで甘んじる経営に、私は歯痒さを感じていました。社会に認知されるビジネスにチャレンジすることで、"在日でもやれば出来る"ことを見せたいと言う夢でした そこで、ベンチャー企業を興すことにしました。在日の夢へのチャレンジでありました。 法的には不法滞在のままであり、資金もありませんでした。あるのは、サラリーマン時代に培った取引業者や商社からの信用だけでした。 そして、昭和45年に会社を退職し、翌年の46年、資本金1000万円で東海化学産業株式会社を設立し、専務取締役として登記しました。ポリウレタン樹脂を応用した建築用防水剤、スポーツ用ウレタン材料の製造販売、施工、及び関連工事を定款に記しました。 また、1年後には、長年の夢であった法的在留許可が法務省から下り、法的問題も解決したところで、代表取締役に就任しました。 会社は順調に成長し、三木市に工場を建設し、"フレックスコート"のブランドは防水業界に知り渡るようになりました。そして、昭和56年5月には、旧オリエンタルホテルで10周年記念と年商10億円達成を記念する祝賀会を、販売代理店、商社合同で開催することも出来ました。

<挫折と試練>

 ところで、製品が全国市場で競争するようになって来ると、厳しいハードルが待っていました。"第三国人"(韓国人・朝鮮人・中国人のこと)経営者の壁、主力取引銀行として取引してくれない大手銀行の存在、商品開発をするための人材の不足等、急成長の歪みと脆さが、大きくなった本体を揺さぶり続けました。 自力で存続するため、約2年間に渡って、商社や原料メーカーと交渉を続けましたが、明確な結論が得られないため、思い切って会社閉鎖を決心し、58年1月には、法的な会社破産手続きを宮永尭史弁護士に委ねるに至りました。 本当の実力は、こうした場面で見せなければならながったのです。しかし、私には人間性も、実力も充分では無かったのです。今は民事再生法と言う法律が、倒産した人を破滅から救う機能を果 たしていますが、当時の会社倒産は、本人の人生はもとより、家族にとっても、死を決意するか、知らない土地への逃亡か、選択するしかなかったのです。私と私の家族は、一瞬にして惨めな人間になってしまったのです。

<溶鉱炉で鍛錬する主>

 企業人として再出発することは、大変厳しいものがありました。しかし、私は、まだ48歳(会社倒産時)だから、新たな人間としては再起しなければと決心し、自己改造のChanceとしてとらえました。 可能な限り、ゼロ、無から再出発をしたがったのです。プライドも金銭感覚も、体に 染みこんだ誇りも、価値観も、全部捨ててしまい、完全に生まれ変わりたかったのです。

<古新聞回収に学ぶ>

 そこで、私は、横浜で、トレットペーパ交換の古新聞回収業を始めました。毎日、軽4輪に乗ってトイレットペーパと交換するビジネスはシビアーな所があり、利益を出すまでに数日かかりました。昼は新聞回収をし、夜は粗大ごみ捨て場を探して回り、金目当てのものを回収しました。この仕事を通 じて、思ってもいなかった多くのこと(同僚の人間模様、田舎で見る日本の伝統的因習と文化、捨てるものの文化等)を学ぶことも出来ました

<自己反省のとき>

 自分の内面的な問題を覗き見ることも出来ました。少年の時から、人間らしい人間になることが、私の目標でした。だから、教養や思想、哲学には常に魅力を持っていました。早くから聖書と出会いながら直接聖書から学ぼうとしないで、矢内原先生を通 じて先生の本を読み、先生に関する批評文を読み、先生の行動に関心を持ち、先生に倣おうと一所懸命でした。 先生の聖書解釈と聖書的考えを、自分のものにしようとしたため、知識の吸収はしましたが、キリストとは何の関係も持たず、先生に隠れているキリストのシルエットだけで満足しようとしていました。

<在日の発見と主の慰め>

 そこで、まず、聖書を読み始めました。在日韓国人のことから離れることが出来ず、私の原点とは何かと考えるようにもなりました。その時に与えられたのが詩編137編1節の御言葉です。 「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」と、あります。私は九州の筑豊炭田のそばを流れる遠賀川を思い出しました。この川は石炭を運ぶ海路として明治から盛んで、対馬海峡から朝鮮へと繋がる川です。 筑豊炭坑の炭鉱夫として、強制連行された朝鮮の青年達が、食べるものも無く、ひもじい思いをした時に、この川のほとりに座って故郷を思い、父と母を偲んで涙を流した川で、朝鮮人強制連行の証人であり、彼らが流した涙を受け入れ、彼らの苦悩を聞き入れ慰めた母なる川です。 バビロニアに捕らえられたユダヤ人が、「バビロンの流れのほとりに座り,シオンを思って、わたしたちは泣いた」と唄ったように、"遠賀川のほとりに座って、川の流れを遠く眺めながら、遙か向こうにある祖国を思い、父母を偲んで先輩達は泣いた"ことが連想されたのです。 この詩編を通じて、自信過剰で、傲慢な自分から、韓日の不幸な歴史を背負い、受け継ぐ者として、在日韓国・朝鮮人の一人に引き戻されました。 私がこの地で、苦難に遭うのも神様の御心であるとすれば、私は祈りながら、謙遜に苦難の歴史をアイデンティティーとして承継する者にならなければと強く思わされた次第です。

<アイデンティティーを与えられる>

 そして、神戸に戻ってから、2年間教会で"ベテル聖書勉強会"へ入学し学ぶ機会が与えられました。聖書を霊的に学ぶ課程を通 して、私は生まれ変わりました。神様と人間との関係の中で、その深さと、そのご計画を、聖書の中から悟った時、私は、子供のように感激しました。そこで、与えられたのは"エレミヤ書29章4節〜14節でした。 エレミヤ書29:7 「私があなた達を捕囚として送った町の平安を求め、その町の為に主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」 詩編137編とエレミヤ29章は、私の在日韓国人、または韓国系マイノリティーとして、この国のためにどうあるべきかを明確に示して下さった御言葉でした。 倒産後10余年、10職種を転職し、引っ越しをすること9回以上でしたが、"「あなたがた家を建てる者に捨てられた、隅の親石となった石」です。(使徒4:11)と聖書にありますように、不法在留の身であったが故に、日本社会の中で捨てられていた在日マイノリティーでありましたが、溶鉱炉の火のなかで練達され、先輩の苦難の足跡を、遺産として受け継ぎ、この地の平安のために奉仕できるように、魂が変えられ、生活が変えられ、環境が変えられたのです。神様の恵みに対する感激と感謝は絶えないものがあります。

<主御言葉に生きる>

 平成4年(1992年)の年度末、私は、ある会社のサラリーマン社長をしておりま したが、オーナーから、義に反する行為をするような指示を受けました。 この行為は、御言葉に反するものでした。私は、祈り、悩みました。当時、私の給料は非常に高額でした。サラリーマンとしては、2度と手に出来るような金額ではありませんでした。しかし、祈った結果 、与えられた聖句は、ヨブ記17:5の「目先の利益の為に友を裏切れば子孫の目がつぶされる」で、私は勇気を与えられ、辞職を覚悟しました。 そこで、3月31日、社員を緊急招集し、社員に別れの挨拶をしました。そして、明日から、失業するので、聖書をもっと深く学ぶために、関西聖書学院の入学手続きをとりました。そして、お世話になった会社に、退職の挨拶回りに出掛けました。 ところが、30分間後に奇跡が起きました。挨拶回りのために訪問したエル興産の柳原社長が、いつもはおられないのに、この日は、偶然在席されました。事情を簡単にお話を申し上げた後、辞去しょうとしたところ、「一緒にその会社を買いとりましょう」と話され、10分後には、オーナー同士の話で、買い取りが決まり、私の新会社での社長就任が決まりました。この新会社が現在のUICです。 そして、2年間の聖書学校も修了できました。神様がみ守って下さり、10年になりました。私の後半の人生に、神様は最高の贈りものを下さったのです。

<韓日和解への道>

 エペソ2章16節〜17節に「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意をほろぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にも、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」とあります。 韓日間にはやるべきことがたくさんあります。この言葉が与えられてから、主は必要な時に、必要な所で、奉仕する機会を与えて下さいました。 ギデオンとVIPへの参加は、神様が与えて下さった驚くべき恵みでした。青少年に聖書を(ギデオン)、ビジネスマンに福音を(InternatoinalVIPクラブ)、元気のない実業人にはCBMCの一員として、皆様とご一緒に、隣人のため、政治家のため、実業人、ビジネスのために祈るようにして下さいました。

<最後に>

 少年の頃のビジョンである、"教養人"、"人間らしい人間"は幻でした。倒産の苦難という極限に対処した時に、今まで求めていた理想は虚像に過ぎなかったことを知りました。 このような自分の弱さの発見から、私の"岩なる神""義と愛の神"に護られたことは、大きな恵みであり、私のborn Againとなりました。VIPクラブのメンバーとして、そしてCBMCのメンバーとして、国家のため、政治家のため、隣人のため、そして青少年、ビジネスマンのため、この町の平安ために祈れることは、私の最高の喜びです。 聖書を中途半端に知ったばかりに、主を救い主として迎えるまでの20余年、財産も誇りもすべてを滅ぼし尽くしてしまいました。この葬られるべき罪多き者を、"主が放蕩息子を慈愛で迎え入れて下さった"ように、主は20世紀の韓日の不幸な歴史の遺産とアイデンティティーをお土産として持たして下さり、日本社会の底辺を補完するような使命を私に与えて下さいました。 「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」です。(使徒4:11) 感謝と感激をもって、謙遜に御言葉を受け入れ、残りの人生はこの地の隅の親石となって、神の栄光のために捧げられればと祈る毎日です。