「確かな道」
(ハーベストタイム月刊誌「クレイ・2002年12月号」掲載)
        

       VIP神戸 前会長 石丸武史 
(元三井海上火災保険KK 関西損害調査部長)

<心のとげ>

 私は、毎年、年末になると思い出す光景があります。何人かの人が焚き火を囲んでいる光景ですが、その中の一人は丸坊主で、生気がなく、ただ火を見ているだけです。

 私は、損害保険会社に入社後の10数年は営業部門に属していました。そして、まだ若い頃の話ですが、同じ職場の先輩の保険金支払に関わる不正処理を発見してしまいました。

後で判ったことですが、この先輩は数年間赤字続きの保険とは言えない保険契約を持っていました。そして改善の余地も無く、毎年業務部門から契約を断るように言われていました。しかし断れませんでした。お客さまにも、上司にも、業務部門に対してもノーと言えなかったのです。そして、その結果 、また事故が発生し、他のお客さまの保険料を流用し、事故を起こしたお客さまに支払ってしまったのです。実は、この先輩は、私の学校の先輩でした。私はこの先輩に可愛がられていましたが、彼が転勤した後、私がその後任を命ぜられたため、この不正処理を発見することになってしまったのです。不正処理を発見した私は、直ちに上司に報告しました。

 翌日、上司は飛行機で彼の転勤先まで飛び、その日の内に、いわば彼の軟禁状態が始まりました。彼は頭を丸めて、その非を詫び、また、交通 事故で亡くなったお父さんの保険金で、全ての不正金も弁償しました。しかし、彼を待っていたのは懲戒解雇の通 告でした。

金銭に関わる不正処理は重大事件であり、解雇されるのは当然なのですが、その後、職を失い、年末の寒さ厳しい朝、「遠慮勝ちに、焚き火に当たっていた」と言う話を聞かされ、私の心にはトゲのようなものが刺さり、長い間、心が晴れることはありませんでした。

 社内では、「○○事件」と呼ばれ、暫くの間、人の口に登ることも多々ありました。そしてその度に、「後輩が見つけたんだってね」と言われているようで、心は落ち着きませんでした。「嫌なことは、嫌」と言わなければ先輩の様になってしまう。何処かでこの心のトゲを取って貰いたいと言う思いが、その後の私の人生に大きな影響を与えたと、今も思っています。

<嫌な仕事も希望があれば>

 私は、その後、損害調査部門に移り、社歴の3分の2以上の期間、事故の時の損害調査、事故の示談、保険金の支払業務に携わらせていただきました。ところで、事故処理は結構、手の掛かる仕事でした。つい先日、「親分はイエス様」と宣言される方々の映画製作発表会に出席し、どちらかと言うと、ドキッとするような迫力を残しておられる方々が、「今からでもやり直しが効く」と、自らの命までを懸け宣言しておられることに心から感動し、握手までさせて頂きました。しかし現実の仕事で、こうした迫力ある方々との折衝は、そんなに楽なものではありませんでした。また、こうした方々でなくても、支払を巡り執拗な嫌がらせをされる方もいます。ある嫌がらせは通 算4年間続きました。そして、ある時、私の部の課長が顔にべったりと唾を吐きかけられるという事件まで発生しました。

 自分自身も「オイ、いつも月夜ばかりじゃねーんだぜ」とか、「お前にも、子供や家族はあるやろが」と睨み付けられたことは何度かありました。ネクタイを必捕まれ、応接セットから無理矢理立たされ、そのまま、投げつけられるように、横に飛ばされたこともありました。しかし、課長が私の目の前で、唾を吐きかけられたこの時ほど、悔しい思いをしたことはありませんでした。この課長が、私にひとこと、「次にやられたら、切れるかも判りません」と言った言葉が今も耳に残っています。でも、この課長を始め、部の全員が、その後も続いた嫌がらせに屈せず、耐えて、頑張ってくれました。私は、この仲間を今でも誇りに思い、感謝しています。

 では、何故、みんなが耐えてくれたのでしょうか。それは、みんなが、頑張ることの意味を知っていたからだと思います。また、それが、正しい事だと確信していたからだと思います。人間は意味のあること、正しいこと、私は、敢えてこれを「希望」と申し上げたいと思います。「希望」があれば、どんな汚いことでも、辛いことでも、耐えることが出来るのではないでしょうか。そして、人間はこうしたことを大なり小なり、いろんな経験を通 して身に付けて行くのですが、私は多くのことを聖書から学んだように思います。

<転機>

 話は前後しますが、私が聖書から学ぶ機会を与えられたのは31才の時で、営業部門から損害調査部門への転勤命令を受けた時でした。住居を変えての転勤、並びに部門を超えての転勤はこの時が初めてでした。初めての社宅生活も始まりました。そこは新築工事中で、急遽、一軒だけ何とか住めるようにして貰った社宅でした。しかし、カーテンレールの工事が間に合わず、余りにも明るい朝の訪れにびっくりしたことを覚えています。 職場の環境も激変しました。多少は他の人の見本とならなければならない立場にあったのにも関わらず、仕事の中身は殆ど判りませんでした。ちょっとつらい毎日ででもありした。

 こんな時に、妻が枕元に用意した聖書を、毎朝、新しい思いの中で読む機会が与えられました。この時、私は何か目に見えないものに捉えられたように思います。今までの自分は、何かにつけ、人と比較し、人に負けないことだけを考え、暗く、ジメっとした思いに支配されていたのですが、私はそこから開放され、清々しい感じで満たされ、心が暖かくなって行ったことを覚えています。上司にも恵まれ、従来とは打って変わった生活が始まりました。もちろん、職場では未だ何をしていいのか判らない者でしたが、聖書の教えだけは、乾いた砂に水が吸収されるように私を捉えて行きました。イエス様の働きを通 して、上に立つ者が人に仕えることも学びました。あるがままの自分を受け入れることの素晴らしさも学びました。

 当初、聖書は、お酒を飲んではならない、賭事も駄 目、家に仏壇があっても駄目と言っていると思っていました。しかし、そうした「形」に捕らわれるのではなく、一旦、全ての現実を受け入れた上で、自らが謙虚になることこそが大切であると、言っているのではないかと思わされるようになりました。謙虚になり、正しいものに触れ、祈り求める中で、自分が変えられて行くことも体験しました。そして、1年後の32才の時、洗礼を受けさせて頂きました。もっとも、それからも職場では、難しい選択を迫られるような場面 は何度もありました。しかし、自らを謙虚に保ち、出来ることは精一杯頑張り、出来ないことは「ご免なさい」と言える時、大きな組織の中での難しさはあったものの、大抵の場合、その誠実さだけは買って頂き、何とか解決の道が与えられました。いやむしろ、思いもよらない責任ある仕事もさせて頂きました。

<聖書に方向性を求めた生き方>

 話は変わりますが、今も、ドヤ街に出かけて行き、援助の手を差し伸べておられる方々がおられます。マザーテレサのような人々です。聖書は「希望と信仰と愛はいつまでも残る。その内で、最も大いなるものは愛である」と教えています。(新約聖書・第一コリント・13−13)

 ここで言う愛とは人類愛に通 じる気高い愛です。神様の愛に通じる愛です。しかし、私たちは、多くの場合、頭では判っていても、そうした愛を実行することは出来ません。ホームレスの方たちに近づき、関わりを持つことさえ、勇気を要するのが実態ではないでしょうか。もし、単に、愛だけが大切であると示された場合、私たちには、とりつく術がありません。そのような愛はなかなか持ち得ないからです。しかし、その前にある信仰と希望が、とりつく術を与えてくれているように思います。信仰とは、見えないものを確かなものとして見ることです。私たちに希望を与え、さらにその向こうにある愛へと誘ってくれるのが信仰です。ドヤ街のボランテイア達は、希望のさらに向こうに、神様の愛を見、平安の中に憩う自分自身の姿を見たから、その働きを続けることが出来るのでは無いでしょうか。

 考えてみれば、私も最初から、人の思いに左右されない比較的安定した心を持っていた訳ではありません。人をリードする力も無く、人の上を行く力も、勇気も無く、人の目だけが気になる、心に安定感のない男でした。しかし、弱さを認め、嫌なことも、自分が鍛えられる為と信じて、慎重に準備し、事に臨んだ結果 、何とか倒れずに、厳しい仕事のレースも走り抜けることが出来たのではないかと思っています。

 現在、私は平日の夜、全国で広がっている「インターナショナルVIPクラブ」の働きに加わっています。それは、生きるのが困難な社会だからこそ、悪に迎合したり、流されたりせずに、むしろ反対に、社会的にも正しく、かつ意義ある生活を、明るく、たくましく続けて行く為に、聖書に方向性を求めた「異業種交流セミナー」で、一人でも多くの知己を得、手を携えたいと思ったからです。イエス様は、今も、「ここに、平安があるように」とおっしゃっておられます。このイエス様のお言葉に従って歩むなら、例え、苦難の中にあっても、また、悲しみの中にあっても、あるいは私のように、「心のトゲ」を持っていても、神様は、大いなる安らぎと、完全な赦しを与えて下さり、確かな「希望」も与えて下さいます。

私はこの「確かな道」を、多くの方と、明るく、たくましく、ご一緒に歩みたいと願っています。